大阪は北新地のシガーバー「スーペルノーバ」。最優秀賞受賞Barで熟成シガーとキューバのラム酒やカクテルで優雅なひとときを。

大阪北新地の歴史

大阪北新地の歴史

東の銀座、西の北新地と呼ばれた時代。

Barとは

大阪の街は梅田を中心とした「キタ」、難波を中心とした「ミナミ」に大きく二分される。その「キタ」のターミナル・JR大阪駅の南側に位置しているのが「北新地」。「東の銀座、西の北新地」とも称され、演歌歌手・都はるみの名曲「大阪しぐれ」でも歌われた、大阪を代表する歓楽街だ。北新地は東の御堂筋、西の四ツ橋、南の堂島川、北の国道2号線に囲まれた南北約360メートル、東西約780メートルほどのエリア。現在は約3,000軒もの飲食店が軒を連ね、しのぎを削りながら最高のおもてなしを提供している。よく比較される東京・銀座の飲食店数は約1,000軒と言われており、その規模は全国的にも最大級。昔ながらの高級飲食店街というイメージも強いが、近年ではカジュアルな店舗も含めて多種多様な店が揃い、新たな一面を見せ始めている。

歴史の始まりは江戸時代

Barとは

北新地の歴史の始まりは、江戸時代までさかのぼる。1688年、現在の新地本通りと堂島上通りの間を流れていた曽根崎川(蜆川)と堂島川の改修が行われ、「堂島新地」が誕生。そこで米市が開かれるようになり、役人や商人の遊所として賑わいを見せた。一方その後、曽根崎川の北岸でも新地が開発され、1708年に「曽根崎新地」が誕生。米市が急速に発展し、商業地として発展をはじめた堂島新地に代わり、遊所のほとんどが曽根崎新地へと移っていった。1842年、曽根崎新地は遊所地として公式に許可され、「北の遊里」などと呼ばれ発展を続けていった。ただ、その頃の中心部は現在の北新地の場所ではなく、四ツ橋筋よりもまだ西側、現在の北区と福島区の境に近い辺りだったという。

大火事で街が焼失

Barとは

明治時代になると、曽根崎新地の中心部は現在の北新地のエリアへと徐々に移動し始めていた。そんな中の1909年、今の北新地を形作る大きな出来事が起こる。7月31日午前4時頃、天満(現在の大阪市立扇町総合高等学校付近)のメリヤス製造販売業者宅から出火。火は西南方向へ、福島付近にまで燃え広がり、辺りは全て消失。「北の大火」と呼ばれる明治以後最大の火災となった。曽根崎川にはその大火で出た瓦礫が捨てられ、東側が埋め立てられていった。1923年には残る西側も埋め立てられ、曽根崎川が消滅して曽根崎新地と梅田、福島が地続きに。つまり、曽根崎新地と堂島新地が一体化したのである。そしてそれは同時に「北新地」が誕生した瞬間でもあった。

大火で一面焼け野原となった北新地だったが、大火からわずか6年後の1915年、「北陽演舞場」が新築された。もともとこの地には、「北新地演舞場」が存在しており、芸妓らによって華やかな「浪花おどり」が演じられてきた。「北陽演舞場」の再建は人々に勇気を与え、その後の北新地は驚異的な復興を見せる。一説によると、1918年(大正7年)末の時点で芸妓置屋が11軒・貸席が153軒、芸妓は825人が在籍、1937年(昭和12年)末の時点では芸妓置屋9軒・貸席155軒、芸妓610人が在籍していたという。

終戦からの復興、そして新たな時代へ

Barとは

そうして遊所として再び賑わいを見せた北新地だったが、第二次世界大戦により再び街のほとんどが焼失。終戦後、再び復興への道を歩み始めることとなる。諸規則の改定を経て、1960年代の高度成長期以降はビジネスユースを中心としたバー・クラブ街へと大きく変貌。そのピークは大阪万博が開催された1970年頃で、店の数は現在の約半分ながら客の数は倍以上いたと言われ、とにかく“儲かる”状況だったという。

その後の北新地は、大阪を代表する社交場としての地位を確固たるものとしながらも、1971年のドルショックや1973年のオイルショック、1985年の円高不況、1990年代のバブル景気の到来と終焉など様々な日本経済の波を経験してきた。1997年にはJR東西線の開通で北新地駅が開業。神戸、宝塚、京橋方面と直通し、格段に交通の便が良くなった。しかし近年は長い不景気が続き、企業の交際費の下落も相まって、各店舗の生存競争はさらに激化。それでも各店舗が「北新地」ならではのおもてなしの心を胸に、新たな歴史を作るべく、日々研鑽を重ねている。

シガーバー スーペルノーバは、そんな北新地の東端に位置。今宵も熟成した最高のシガーと選りすぐりの銘酒を揃え、ここ大阪の北新地店と淀屋橋店であなたのご来店をお待ちしています。

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